アメリカに住んでたころからもしかしたらと思ってて、ここに移り住んでからは確信に変わったことなのだけれど、

結局、ほとんどの人は生まれ育った地への愛着(あるいは柵か?)があるために、好んでは他の地に移ろうとしない(移れない)。

ってこと。
意外に思うかもだけど動いてばっかりいると思われるアメリカ人だって実はそうで、移民の国といわれようが2代3代も同じ地に住み続けば子や孫はその土地を離れようとはしない。一世とそれ以降の世代の差は移民の中では深刻な問題であるように、ジーちゃんと孫では母国語が違うから血縁だろうが何言ってるかわかんなくなるわけで、孫くらいになると、ジーちゃんはそうでも自分は○○人(生まれた土地の国民)って思うもんだってこと。ここらの移民での世代間問題をコミュニティーとしてうまくやってるのが中国人だと思うんだが、彼らはほとんど固まって自分らの町を作り上げるから生きて行けるんだと思う。
話を戻して、人が生まれた地を離れるときは、切羽詰った事情があるか(国を追われた、住めなくなることをしてしまった)、あるいはそこでは満足できない、得るものが無い(能力や仕事といったこと)ってのが大きな理由だと思う。人生で言うと大学進学が一般的にこの問題の最初の関門ではなかろうか。一部の大学以外だとおそらく地元圏の人がほとんどを占めるでしょ。
アメリカに住んでたときに出会った東海岸から来てた院生は、「大学は東(地元)に行ったので大学院では西に来たが、就職するなら東(地元)に戻るよ。家族もいるしね。」と言っていた。日本でもこの傾向は同じだと思う、職さえあれば。
アメリカだと特にシリコンバレーが動いて来た人たちの例みたいに挙げられるけれど、あの国やあの地域はほんとに特殊な場所であって世界中から"変"なのが集まることでうまくいくものを生み出せてるものの、長い目でみりゃ本当にそれがいいのかどうかは分からん。今の僕の職場はびっくりするくらいほとんどが地元民だし、大学は東や西の方だったけど生まれはここらって人ばかり。よくそれでここまでやってきたなと逆に驚くけれど、これから文化的経済的な発展でうまくいく秘訣ってのが、動かないことでうまく行くことと行かないことの違いって思えるような。
職場の人ら曰く、「ここらの人はあまり動きたがらないんですよね」とか「ここは夏暑くて、冬寒いんだよ」って言われるが、それって一部を除き日本全国同じですよと僕は思う。昔住んでた京都の人も同じようなことを言ってた。
つまり、自分が住んでいるところが世界であって、それ以外はブラウン管*1を通すか旅に出るかでしか見れない非日常な部分=外国なんだよね。他の土地から来た人は一種の外国人みたいなもの。大阪だけでなくて「他に比べりゃ外国同然」なのは何処も同じ。エスカレーターの左か右を空けるのを見て驚くのと同じで、蛸焼ーとか、味噌カツーとか、もんじゃーとかってのが自分らのアイデンティティの源として大事なことなんだけれど、でも、そろそろいろんなことを受け入れても良いんじゃないか。いや、話のネタとして振られてるってを分かれよ、って言われればそれまでなんだけどさ。
古今東西、日本で生まれた地を「動かなくて済む人」ってのに共通するのは、働く場や満足する環境があったり家族のこととかの理由に特に不満はないんだと思う。あっても我慢するとか、やりたいことが特に無いし、親が食わせてくれるってのも多いだろうけれど。田舎で若者の流出や過疎化ってのが深刻になるのは、そういったのが欠けてる部分があるってのが理由なんだと思う。特に仕事で。
最近そういうのを身近に感じることが多くなったこともあっていろいろと考えてたえわけだけど、僕が大学進学するときに母親が「高校まで育てたけれど、この先一緒に住むことは無いわね」と言ったのを思い出した。母親はその時点でそういう覚悟をしてたのだろうけど、親ってのはそういうものなんだろうなぁと思うわけで。最終的に経済的に自立するまでには時間がかかったけれど、僕って人間をよく理解してくれていたのだと思う。

この前電車に乗ってた時に地元の私大生だと思われる2人の会話で
A「C君、信州大に行ったらしいぜ。」
B「すごいじゃん、Cって頭良かったんだ。で、信州大って何処?」
平和だなーこいつらと思った。
とある人に「ここに来たのは縁でもあるのか?」と聞かれてどう返答しようか窮したけど、それもあるけれど多分ここで更に新しいことが出来れば、次に何処に行っても自分で生きていける物を作っていけるだろうと今は思うし、やったこと無いよりやったことある方が断然面白いと僕は思う。それに、移り住めること自体が何かの縁なんだとおもうし。

1001 世界の絶景

1001 世界の絶景

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*1:多分、この言葉もあと数年の命だろうな。レンタルビデオ屋やAVってのと同じくらい。