先日買った「背信の科学者たち」が面白い。昨今の捏造盗作事件を比べて見ても、20年前の書籍とはいえその内容は色褪せてないなってのが実感。
まだ読んでいる途中だけれど、時は流れても科学の現場で起こっていることはほとんど変わっておらず、実験から得られた結果をどう判断するかは立ち会っている科学者にしか出来ないってこと。そして、生データや実験の再現性なんてのは興味が有る研究者以外には、言ってしまえば一銭の価値も無いものなんだってこと。
自分がやってることに誇りを持つのは大事なんだけど、そういう見方も忘れてはいけないんだろうと思い返した。
特に、4章の最初の方の一節、科学記者の言葉に感銘を覚えた。

「あらゆる職業のうちで、科学が最も危急に瀕している。音楽、美術、文芸などでは専門の評論家がいるのに、科学にはひとりもいない。それは、科学者がこの役割を自ら演じているからである」

確かにどんな人であれ映画や絵を見て、本や雑誌を読み、音楽を聴いたなら、それらの好き嫌いを論じるものだし、更に深い知見から批評するのを生業としている人も当然いる。
しかし科学評論家と言われるような人がいても、例えば今回のA研究室の研究はダメだなんていうことを言うことは無いだろうし、一般の人は誰も信じないし、分からない。当然、批判された研究者は「心外だ、訴える」といいかねない。それをするのが同業の研究者であり、ピアレビューと言われるもの。だから科学の分野では、科学者=(唯一の)批評家であるってこと。しかし、これが問題でもある。wikiでもちゃんと書いてある。
査読 - Wikipedia

査読制度においては、エリートや、あるいは個人的な嫉妬によって出版がコントロールできてしまうと主張している。査読者は自分の意見と逆の結論には非常に批判的になるし、反対に自分の関係者にはあまい評価をする。

広く耳目を集めるような研究でもない限り、一般との接点はほとんど無い。それに価値があるとか無駄だと論じることが既に難しい。いや、言う必要すらないと言ってもいいだろうと思う。
企業のケースは極論すれば、製品と言う目に見える形で現れて、売り上げで全ての価値が決まると言ってもいいのかも。だけど、大学の研究はそういう類のものではないだろう。
役に立つから価値がある?論文書いていっぱい特許を取るのが優れた研究?
そういう人もいるかもだが、大多数はそんなこと考えて研究してるわけでは無いと思う。まずは科学者がやってみたいから。或いはPIや周りの環境がきっかけとなって研究なんて進んでいくもの。
もしかしたら、10年後100年後に誰かが活路を見出してくれて、その頃生きてたらパテントの一つや二つでいくらかもらえるかもだけれど、それも研究をする直接のモチベーションではない。

では捏造が起こるのはなぜか?これを解明する鍵は何処にあるのか?研究者に限らないが、ウソをついて自分をよく見せようっていう虚栄心、名誉、権力ほしさであったり、早急に結果を求められるための時間の無さなども、そうさせるのかもしれないが、実際にはやった本人しか知りえないところでもある。どうして起こったのか?なんてマスコミは知りたがるけれど、おそらくその解明は、時間をかけて少しずつ氷解させていくしかないのでは。お金ってのはそれほど問題ではないと思う。と言うのも研究費ってのは別にして、大学の研究者にとって個人の資産としてのお金ってのは、足りる分あればいいっていう人が多いと思うのよね。そうでないと基本的にアカデミックに残らない(ただ、ここら辺の評価されるべき発見発明への対価が日本は相対的に低いかもってのは少し問題とも思う)。研究費の私的流用っていうのもあったけど、見つかれば捕まって職を失うっていうリスクを犯してまですることではない。

で、その抑止力は何か?っていうのは僕も知らない。この本の終わりにでも書いてあるかもだけれど、結局は研究者は自分のやっていることを、価値がある無しではなくて、客観的に知る努力をする以外ないんだろうとも思う。
よくそういう人は心が弱いとか魔が差した何ていわれるが、誰にでも起こりうることだと、解釈すればいいと思う。昨日バベルを見てきたが、裸の女子高生(きくちりんこ)に抱きつかれた場合、男の自分ならどうするかってのを考えればいい(ちと違うか?)。僕なら?ウソではなくて多分刑事と同じことをしていたと思うよ。
そういうこと。